『ヨシ原通信』No.230 2023年8月15日(火)

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『ヨシ原通信』No.230 2023年8月15日(火)
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[1] 篳篥のヨシをセイタカヨシ(西湖のヨシ)と間違えた 牧野富太郎-⑥
[2] 8月15日
〇伶人も多くが戦死した。〇『雅亮会報』「再起の弁」。
〇押田良久(日本雅楽会初代会長)「雅楽の危機 大切に守ろう この立派な文化財」
[3]「つる草抜き」予定
[4] 寄付のお願い
[5]『ヨシ原通信』バックナンバー
[6] 問合せ先

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[1] 篳篥のヨシをセイタカヨシ(西湖のヨシ)と間違えた 牧野富太郎-⑥

前号に掲載した『本草図譜』の絵について高田直俊先生(淀川環境委員会元委員、大阪市立大学名誉教授)より「この絵は、セイタカヨシです。セイタカヨシは絵のように幹から枝が出ます。この枝は主に2年目の幹からでて小型の葉をたくさんつけます。この幹には葉鞘が付いてないので、2年目の幹です。」と教えていただきました。ありがとうございます。

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(国会図書館蔵 デジタルコレクションより https://dl.ndl.go.jp/pid/2550779/1/1)

また、高槻市自然博物館(アクアピア芥川)学芸員の高田みちよさんより「角芳春(かどよしはる)さんがお持ちだった写真です」と牧野富太郎の写真を送っていただきました。

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服装からして昭和12(1937)年8月15日の写真と思われます。

(写真提供 角芳春(かどよしはる)氏)

この写真は初めて公開されるとても貴重な写真かと思います。右から3人目は牧野富太郎であることはわかります。今ここで注目するのは、左から2番目の人です。この方は天王寺楽所雅亮会の方で、篳篥も作っていたという日下久悦氏と思われます。

何故分かったかというと、写真を送っていただいた高田さんが、写真の持ち主である角さんから「(10月19日角氏宅での)写真に写る日下さんは宝塚の人で、天王寺雅楽をやっている。自分で篳篥も作っていた。茨木高校の先生が牧野と仲良しでつながった。・・・」と直接聞いたことを私に教えていただきました。現在天王寺楽所雅亮会で篳篥を指導され「つる草抜き」にも参加されている前川隆哲さんからも「日下久悦氏は天王寺楽所雅亮会の人です」と教えていただき、私が調べた限りでも、明治35(1902)年に雅亮会の理事となっています。(『雅亮会百年史 増補改訂版』p30)

以前掲載させていただきました昭和12(1937)年10月19日の角氏宅での写真の前列右2人目に日下久悦氏が写っており、8月15日の写真の左から2人目の人は同一人物・日下久悦氏と思われます。

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牧野富太郎が篳篥の蘆舌に使用するヨシを調べに鵜殿を初めて訪れた時も、篳篥も作り演奏もする日下久悦氏が同行していたことが分かります。

(写真の前列右2人目に日下久悦氏  写真提供・兵庫県立 人と自然の博物館「植物学者 牧野富太郎 写真展 ~川﨑正悦氏アルバムより~」「牧野富太郎、高槻市鵜殿のヨシ原にたたずむ」及び高槻市自然博物館アクアピア芥川「ミニ展示 植物学者 牧野富太郎と高槻」を使用)

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[2]8月15日 楽師も多くの人が戦争で亡くなった。

牧野富太郎が鵜殿を訪れたのは昭和12(1937)年8月15日でした。この1か月ほど前、1937年7月7日、日本軍と中国軍の武力衝突が起こり日中戦争へと突き進んでいく。まさにその年でした。それから1941年12月8日、日本は米国、英国に宣戦を布告する。そしてヒロシマ、ナガサキとつづく。

雅楽の世界でも多くの人が亡くなりました。

多 忠長  明治44(1911)―昭和14.5.11 27歳 中国南昌付近にて戦死

多 嘉雄  大正9(1920)― 昭和19.8.16 23歳 ビルマにて戦死

林 広太郎 大正9(1920)― 昭和20.3.23 25歳 硫黄島にて玉砕戦死

薗 広親  大正12(1923)― 昭和20.6.20 21歳 沖縄にて戦死

岡 実   大正7(1918)― 昭和20.7.10 27歳 フィリピン群島にて戦死

多 忠睦  大正5(1916)― 昭和20.8.21 29歳 ブーゲンビル島にて病死

多 忠雅  大正13(1924)― 昭和21.1.10 21歳 シベリアにて病死

岡 武雄  大正9(1920)― 昭和22.4.20 27歳 ブーゲンビル島にて発病、帰国後死去

(『楽家類聚』p232東京書籍、『雅楽事典』音楽之友社を参照した方のみ。)

この方々は当時の東京の宮内省楽部の方々ですが、この頃、昭和22(1947)年、大阪の天王寺楽所雅亮会は「雅亮會報」を発刊し第1号で「戦争が雅亮会に与えた災害は甚大であった」と書き進め「明治初年当然廃絶すべき運命にあった四天王寺舞楽を断固として保持しきった雅亮会は遂に再び舞楽の保存という重責を背負うべき運命に逢着しているのではあるまいか」と記しています。

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(「雅亮會報」昭和22(1947)年1月1日号)

また、日本雅楽會の初代会長 押田良久氏(1908~1999年)は朝日新聞に「雅楽の危機 大切に守ろう この立派な文化財」と題して寄稿し「1467年から11年間、京都を中心として戦われた応仁の乱で、内裏や公家、武家の邸宅や由緒ある寺社のおおかたは焼けて、貴重な文化財も多く失ってしまった。御所の楽人も弓矢を取って戦って戦死し、ちりぢりになってしまった。後陽成天皇(1587年ごろ)は大阪の天王寺の楽人に京都御所の舞楽の再興と保存を命ぜられたことが『教訓抄』などの書物に記されている。この時を雅楽の最初の危機とするならば、今こそ第二の危機といっても言い過ぎではないであろう。第二次大戦に出征して戦死した楽師もいる。昭和22年の職制の改正によって定員が25人に縮小してしまった。(中略)楽人だけの問題ではない。楽器を作る楽器師も少なくなった。良い腕を持っていても、需要の少ない雅楽の楽器を作っていたのでは食ってゆけないので、転業してしまう。地方の民間の雅楽会では、つぎはぎだらけの装束や破損のひどい大太鼓など見るのも痛ましい」(朝日新聞1961年5月31日、「押田良久評論集」日本雅楽会 2009年)と書いている。

戦争は、本当に人の命も文化も自然も環境も破壊してしまうものです。

この戦争(1937年~1945年)だけでなくなった人の数は、全世界で6000万人から8000万人といわれる。それだけではない戦争は最大の環境破壊でもある。戦争に「正義の戦争は無い」。どちらが悪いのではない。武器の援助は戦争を長引かせるだけとなる。第3次世界大戦に進むのか、核兵器も使われるのかとも言われるウクライナ戦争は早急に和解すべきであろう。SDGsは環境破壊を食い止めるため、世界から戦争を無くすことをも目標にすべきだろう。

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[3]「つる草抜き」予定

8月、9月の「つる草抜き」

第8クール 8月21日(月)~8月24日(木)  午前8時~午前11時
第9クール 9月11日(月)~9月14日(木)  午前8時~午前11時

(なお雨などにより中止の場合、作及び業の進み具合で日程の変更があります。)
駐車場はありません。

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[4] 寄付のお願い

「つる草抜き」の活動を続けていくための寄付をお願いしています。

寄付振込先
●郵便局は
郵便振込用紙に「ヨシへ寄付」と記入頂き
[口座番号]00140‐5‐614032
[加入者名]雅楽協議会

●銀行は
三井住友銀行 田無支店
普通 4012320
雅楽協議会 鈴木治夫

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[5]『ヨシ原通信』バックナンバー

『ヨシ原通信』を拡散していただけるとありがたいです。
『ヨシ原通信』のバックナンバーは、下記より読むことが出来ます。
http://gagaku-kyougikai.com/?p=2139

これまでに配布しました資料などは下記のアドレスから見ることがます。
https://drive.google.com/drive/folders/1M4MpYYxGF_GAdzrpjayvbI6BEw6zO8YX

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[6] 問合せ先・連絡先

メール gagakudayori@yahoo.co.jp
℡042-451-8898 ℡090-1538-1693
雅楽協議会 http://gagaku-kyougikai.com
発行 雅楽協議会 ヨシ対策室 担当 鈴木治夫

篳篥を吹く源博雅(『陰陽師 玉手匣 2』より)ⓒReiko Okano

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