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『ヨシ原通信』No.334 2024年10月24日(木)
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[1] 堤防石碑「鵜殿 蘆の原」建立は建設省
[2]『篳篥用ヨシの再生へ』活動記録 冊子発行
[3] 篳篥の蘆舌用ヨシの購入について
[4]『ヨシ原通信』バックナンバー
[5] 問合せ先
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[1] 堤防石碑「鵜殿 葭の原」建立は1974年 建設省
上牧・鵜殿ヨシ原の堤防の中ほどに「鵜殿蘆の原」と刻まれた石碑が建っています。
この上の写真は1984年に撮られた写真 『五領 創立十周年記念』(p65)
(発行 五領中学校PTA 1984年2月)より
写真は現在の石碑
現在の石碑と比べると周りの木が大きくなっている程度で他は変わっていないようです。
ただ右側に高槻市教育委員会が平成21(1990)年2月に立てた「鵜殿のヨシ原」の案内板が設置されています。
石碑建立は 1974年に建設省
教育委員会の案内板には、「石碑を建立した方の名前」の記載はありません。誰が建立したのかと不明でしたが、先日五領村の村長だった森本正太郎氏のお孫さんに当たる方にお会いしたところ「昔の事は五領中学校PTAで発行した『五領』に掲載してあるかもしれません」ということで、無理をお願いして本を送っていただきました。
その本を読ませていただくと「鵜殿の淀川堤には、昭和49(1974)年10月、淀川百年祭の時に「鵜殿葭の原」の碑が建設省の手で建立されました。同時に、そのいわれを書いた碑も並んで立てられて現在にいたっています。」(p54)と書かれています。
長年の疑問が一つ解決しました。建設省(現国土交通省)の建立でした。
写真 五領中学校十周年記念『五領』の表紙と裏表紙
発行 高槻市五領中学校PTA 昭和59年2月3日
建設省の「葭の原」に寄せる想い
横に立つ碑も同時に立てられました。よってこの文は建設省の起草となります。この文を読むと建設省が「葭の原」を永久に「葭の原」へとの想いが伝わります
写真 「鵜殿葭の原」の石碑の横に立てられた建設省の起草による碑文
この碑文を書き出してみます。
「 鵜殿葭の原
鵜殿の葦は雅楽楽器ヒチリキの舌として最適といわれ、古書雅遊漫録にも「簧(シタ)はよしにて作る津の國鵜戸野村の蘆を重寶とす、その外のものは早く損じ音もあしし古く久しく枯らして作る家々にいろいろいの習いあり」とある。江戸時代徳川幕府が治水対策として葦を刈ることを禁止したが、村人たちは京都の御所へ楽器の材として納入することを盾に葦苅の権利を確保しつづけた。
現在もその権利が認められていて鵜殿の河原には美しい葦の群生が見られる。
「世の中ようど野に蘆のよしとても
ほに出りけりな秋の夕暮」
烏丸権中納言 」
ここには、徳川幕府の「葦刈の禁止」に対して、黙って従うのではなく「御所への納入を盾に葦苅の権利を確保し続けた」と記しています。すなわち「御所への納入」を「盾」に、「葦苅の権利」を守り、生活を守ったのだと思えます。当時ヨシは燃料にもなり生活の一部だった。ヨシを守ることは村人全体の生活を守ることでもあったはずです。当時御所へ納めるのは1千本に満たないでしょう。その千本余を「盾」に、ヨシ原全体の何十万本ものヨシを刈る権利を確保し続け、村人全体の生活を守ったとも言えそうです。
「葦苅の権利」確保しつづけたので「美しい葦の群生が見られる」と続けます。
最後に烏丸権中納言(烏丸光廣)の歌を刻んでいます。烏丸家は上牧の領主です。鵜殿の領主は高槻蕃です。
(このヨシ原には地主が二人いたということになります)
するとこの歌を刻んだ意味するところは、「鵜殿葭の原」と記し、同時に烏丸光廣の歌を刻むことによって「上牧」を表したとも取れないことはない。「鵜殿」という地名が『土佐日記』『雅遊漫録』に記され、関所もあったなど鵜殿は「有名」であることから石碑には「鵜殿」を刻み、「上牧」を意味する「烏丸」の歌を刻んで「上牧」との「共存」を測ろうとしたとも思えます。(「鵜殿」の地名は合併により現在は無く、「道鵜町」となっている)
「美しい葦の群生」がいつまでも続くように
国(建設省=国交省)のヨシ原への想い
私はこの碑文を読んだ時は、地元の方、あるいは案内板があるので高槻市の建立かと思っていましたが、国(建設省)の建立とわかり読み直してみたところです。
建設省が石碑に刻んで後世に伝えようとした意味にいて、私は次のような点もあるように思えます。
○「美しい葦の群生」がいつまでも続いて欲しいとの国(建設省)の想いと、実現への努力を表明するものとして建立した。
○「葦苅の権利」を江戸幕府に対抗して「確保しつづけた」ので葦原が続いている。
この意味することは大切なことで語り継いでいく必要があるので石に刻んだ。
○上牧の領主である烏丸家の烏丸中納言の歌を刻むことで、上牧と鵜殿とのヨシ原であることを表現した。
(これは少しうがった見方のようにも思えますが、全く意識されなかったとは思えないのです)
写真 建設省が淀川百年祭の1974年に建立した「鵜殿葭の原」の石碑
『五領』(五領中PTA発行)の「石碑」の解説の最後に
「このヨシ原は、淀川に残された貴重な大自然であり、私たちのふるさとの大切な財産であると思います。春夏秋冬それぞれに風情のあるこのヨシ原を、みんなで守り育てたいものです」(p54)と書かれています。
1984年にこの冊子『五領』が発行されてから40年が経ちました。ヨシ原への思いは今も続いていますが、「ヨシ原」は当時に比べると風前の灯火になっているように思います。
写真 今年(2024年10月)のヨシ原 高速道路の橋脚の工事が進んでいる
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[2] つる草抜き 活動記録 『篳篥用ヨシの再生へ ~上牧・鵜殿ヨシ原~』冊子発行
篳篥用ヨシが全滅した2021年秋、なんとかヨシを再生できないかと模索した経過や、問題点など、また つる草抜きの意義や活動などを記録しました。写真を多く掲載しました。
鈴木治夫 著 発行:2024年3月 雅楽協議会 サイズ:A4 頁数:54頁
定価 1,100円(税込)
問合せ・購入 https://musashino-gakki.com/
武蔵野楽器 ℡03-5902-7281
上記アドレスより申し込めます。
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[3] 篳篥の蘆舌用ヨシの購入について
「つる草抜き」エリアの篳篥蘆舌用のヨシを購入希望の方は下記へご連絡ください。
連絡先・問合せ先 メールアドレス
kimura7633@gmail.com (上牧実行組合 木村和男氏)
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[4]『ヨシ原通信』バックナンバー
『ヨシ原通信』バックナンバー
№1~№130 (2022年2月10日) ~(2022年12月31日)
http://gagaku-kyougikai.com/?p=684
№131~№269 (2023年1月8日)~(2023年12月13日)
http://gagaku-kyougikai.com/?p=2139
№270~最新号 (2024年1月11日)~
http://gagaku-kyougikai.com/?p=3875
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[5] 問合せ先・連絡先
メール gagakudayori@yahoo.co.jp
℡042-451-8898 ℡090-1538-1693
雅楽協議会 http://gagaku-kyougikai.com/
発行 雅楽協議会 ヨシ対策室 担当 鈴木治夫
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